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【読書メモ】「方法序説」を読んで「深く考える方法」についてまとめた

本日の読書メモは、デカルト著「方法序説」。古典です。表紙の「すべての人が真理を見いだすための方法を求めて、思索を重ねたデカルト」という文言に惹かれ、手にとりました。こういう哲学的な本って視座をぐっと引き上げてくれるような感じがするのですきです(雰囲気)。

方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)

本書はほんとに短くて、本文が六部構成で100ページに満たないくらいでした。

知識と実践

数年を費やして、世界という書物のなかで研究し、いくらかの経験を得ようと努めた後、ある日、わたし自身のうちでも研究し、とるべき道を選ぶために自分の精神の全力を傾けようと決心した。このことは、自分の国、自分の書物から一度も離れなかった場合にくらべて、はるかにうまく果たせたと思われる。【第一部 p18】

デカルトはあらゆる書物を読んで大量の知識を身につけた後に旅に出て、自分の足で各所を見て回りながら身分の異なる様々な人々と交流したという人です。そんな人が、知識を仕入れるだけでなく自分で体験して考えることの大切さを説いています。

各人が自分に重大な関わりのあることについてなす推論では、判断を誤ればたちまちその結果によって罰を受けるはずなので、文字の学問をする学者がめぐらす空疎な思弁についての推論よりも、はるかに多くの真理を見つけ出せると思われたからだ。【第一部 p17】

そうしてたくさんの知見を得たことで彼は、ある考えを何の疑いもなく受け入れたり、思い込みによって判断したりすることの危うさを学んだとのこと ↓

他の人びとの習俗を考察するだけだった間は、わたしを確信させるものはほとんど見いだされなかったし、そこにも、前から哲学者たちの意見のあいだに見られたと同じくらいの食い違いがみとめられた。したがって、そこからわたしが引き出した最大の利点は次のことだった。つまり、われわれにはきわめて突飛でこっけいに見えても、それでもほかの国々のおおぜいの人に共通に受け入れられ是認されている多くのことがあるのを見て、ただ前例と習慣だけで納得してきたことをあまり堅く信じてはいけないと学んだことだ。【第一部 p18】

論理的に考える

第二部では、論理的な思索を行うためのデカルトなりの「規則」が4つ、示されます。

論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという堅い不変の決心をするなら、次の四つの規則で十分だと信じた。 第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断のなかに含めないこと。 第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。 第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと、そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。 そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。【第二部 p28】

第一と第四(最後)はだいぶ難しそう。でも第二と第三は意識していきたいと思いました。

そして第四部では有名な、「方法的懐疑」や「コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)」についての記述が出てきます。

ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない、と考えた。 -(中略)- しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「私は考える、ゆえに私は存在する〔ワレ惟ウ、故ニワレ在リ〕」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。 【第四部 p45】

どれだけ疑っても「疑っている私」という存在は疑いえない。この気付きについて、学校の授業かなにかで初めて聞いた時は、超衝撃でした。

知識を自分だけに留めない

ところでわたしは、これほどに重要不可欠な学問の探究に全生涯を当てようと企て、わたしの見いだした道が、人生の短さと実験の不足とによって妨げられさえしなければ、その道をたどって間違いなくその学問が発見されるはずだと思われたので、この二つの障害に対して次のこと以上によい策はないと判断した。それは、自分の発見したことがどんなにささやかでも、すべてを忠実に公衆に伝え、すぐれた精神の持ち主がさらに先に進むように促すことだ。その際、各自がその性向と能力に従い、必要な実験に協力し、知り得たすべてを公衆に伝えるのである。先の者が到達した地点から後の者が始め、こうして多くの人の生涯と業績を合わせて、われわれ全体で、各人が別々になしうるよりもはるかに遠くまで進むことができるようにするのである。【第六部 p83】

ここはまさに「巨人の肩の上に立つ」。感動的。

さらに、人の目に触れることを意識しながらアウトプットしつづけることの大切さについても書かれています。

多少とも重要だと判断するすべてのことを、その真理の発見に応じて書きつづける、しかもそれを、印刷させようとする場合と同じくらいの周到な注意をもって書きつづけることが本当に必要なのである。一つには、こうしたことを十分に検討する機会をそれだけ多く持つためで、多くの人に見られるにちがいないと思うものは、自分のためだけに書きとめておくものよりも、つねにいっそう丹念に見るのは明らかだし、また考え始めたときには真実だと思われたことが、紙に書こうとするときには虚偽に見えることもしばしばだったからだ。

私自身、ブログでのアウトプットを習慣化したことで、思考の流れを追ったり考えを整理したりする力がついてきたなーと感じております。ほんとに筆不精でブログとか絶対ムリ!というタイプだったんですが、こうしてブログを続けることができているのは、この「できることが増えてる」感がいいんだろうなと思います。

ということで、このように人の目に触れるようにすることを重要視していたデカルトですが、彼が生きたのはガリレオ・ガリレイの宗教裁判が行われたのと同じ時代だったので、公表を諦めたものがいろいろあったそうです。

けれども、わたしの生存中それが公表されることにはいっさい同意してはならないと考えた。わたしの書いたものはおそらく反駁や論争を免れないだろうし、それがわたしにもたらす名声がどんなものであっても、そうしたことが、自分を導くために使おうと予定している時間を失うきっかけになることは絶対に避けたいからである。

こんな状況にあっても学びを諦めない精神性、本当に見習いたいです。

今までわたしが学んだわずかばかりのことは、わたしのまだ知らないことに比べればほとんど無に等しい、しかもわたしはまだ学びうるという希望を捨てていない、このことを知っていただきたいと思う。というのは、諸学問のなかで少しずつ真理を発見していく人は、金持ちになり始めた人たちが、まえに貧乏だった頃はるかに少ない利を得るのに費やした労力にくらべて、少ない労力で大きな利を得るのと、よく似ているからである。【第六部 p87】

最後に、本書からイチオシの金言を一つ。

健康はまぎれもなくこの世で最上の善であり、ほかのあらゆる善の基礎である。【第六部 p82】